代表者プロフィール

こんにちは!家族で安くて綺麗な中古車に安心して乗りたいけど「そんな車...まあないよね」とあきらめかけている方に、安心と信頼を提供する「中古ミニバン専門店」代表の菊池宥孝です。

「10万km走った車なのに全然トラブルがないですね」とか「何かあってもラインアップさんの車なら安心です」とか。
他にも、「とても中古車とは思えないくらい綺麗ですね」などという言葉を、お客様から言われると、とってもうれしい気持ちになります。

幼少の頃から現在も、わたしは夢中になることを見つけて、それに集中的に取り組むことが大好きな人間でした。

そんなわたしは、ある"キッカケ"から、夢中になって地道に努力することの楽しさを知ったのです。

 

「俺、レーシングドライバーになりたい」

わたしは岩手県盛岡市出身で、幼少期からずっとサッカーを続けてきました。

いわゆるサッカーバカで、みなさんの近所にひとりはいませんでしたか?

おそらく想像通りの少年です。

そんなわたしは、大学進学もサッカーを続けるために迷わず、埼玉県の大学を選びました。

そして、大学入学後もしばらくサッカーをしていましたが、ここで転機が訪れます。

新しく出会ったサッカー部の友人が、「グランツーリスモ」というレースゲーム好きでした。実はわたしも小学生の頃から、グランツーリスモをハンドルコントローラーまで買ってもらってプレイするくらい好きだったので、その友人と意気投合したのです。

そしていつの間にか、友人と一緒に部活の練習後に私の部屋でグランツーリスモをしたり、オンラインレースをしたりすることが日課になっていました。

そのレースゲームにハマりすぎたわたしは何故かどんどん速くなり、しまいには世界で10万人以上が参加するイベントで上位900人に入るくらい上達してしまったのです。

「もしかして、才能あるんじゃない?」

これぞ若気の至りというものだと思いますが、わたしは「レーシングドライバーになりたい!」と強く思い、両親に「就活はしないでレーサーになりたい」と相談しました。

もちろん最初は「何言ってるの?就職してから目指せないの?」と反対されましたが、最終的には真面目な気持ちを理解してくれて、応援してもらえることになりました。

「なんでも夢中になって生きてきました」

レーサを目指し始める20年前。わたしは4人家族の末っ子長男として岩手県盛岡市に生まれました。

両親は学校の先生で、幼少期からとても可愛がられて育ててもらった記憶が残っています。

ミニバン専門店という今の仕事にも繋がってくるのですが、私自身、幼少期からファミリーカーに馴染みがありました。

47都道府県全てに行くほどの旅行大好き一家だった我が家の旅路には、必ず三菱の「デリカ」があり、2列目シートの右側が私の指定席でした。

父親が運転するデリカは、高速道路を90km/hでゆっくりと走っていた記憶が残っています。目的地まで時間はかかるけど平穏な空間は、小さな私に大きな安心感をもたらしてくれました。

わたしの幼少期をひとことで表すなら「凝り性」。

なんでも事前に確かめないと気が済まない性格で、「今度○○に遠足に行くから行ってみよう!」と遠足予定地に事前に行ってみたり、遊園地のトロッコに昼から閉園まで乗り続けていたりと、やりたいことはハッキリ主張して行動する性格でした。

そんなわたしの「やってみたい!」を快く聞いてくれた両親と過ごした幼少期のおかげで、のびのび楽しく成長できましたし、大人になって親の愛情が身に染みて分かるようになりました。

そして、小学生から始めたサッカーに夢中になり、“サッカー馬鹿”という言葉がピッタリの少年となります。

どんな時も見捨てないでいてくれた"感謝"

そしてわたしが小学校高学年になると、徐々にサッカーと友達を優先するようになり、自然と家族との時間は減っていき、中学生になると毎日のようにあった部活から、「面倒くさい、家が良い」と家族旅行にも行かなくなってしまいました。

そんな酷い態度の僕に対しても、家族は温かくサポートを続けてくれました。

サッカー部の朝練で早起きの時も、両親は仕事があるのにも関わらず朝早くからお弁当を作ってくれたり、遠征から夜遅く帰った時は夜中に学校まで迎えに来てくれたり。。。

他にもワガママな注文をする僕に毎日作ってくれたご飯。連絡もせずに夜中まで友達と遊んで怒られた事。特に中学高校では、キリがない程の心配と迷惑をかけてきてしまいました。

それでもわたしは、一度も警察のお世話になることはしませんでした。

それは「両親が悲しむことはしたくない」。ただそれだけです。

自由に好きなことをしたいけれど、両親が悲しむことだけはしないことを絶対に守っていましたし、両親も怒りながらもわたしを信頼してくれていました。

サッカーを通して学んだこと

反抗期も落ち着いて、わたしは大学でもサッカーを続けるため、実家を出て埼玉県の大学に進学します。

中学、高校、大学と続けたサッカーでわたしは、コツコツと毎日練習することが3か月後くらいにようやく成果が出たり、練習したつもりなのに何も変わっていなかったりすることがあると身をもって学びました。

その中で、「成果を出すための努力とは何か?」「なぜ伸び悩んでしまうのか?」「なぜ上手くいったのか?」などと試行錯誤を繰り返して行く中で、それ自体が楽しく感じられるようになっていました。

失敗の方が多かったサッカー人生でしたが、そこで得た経験は何にも代えられない財産です。

わたしが凝り性で好きなことは徹底的にこだわってやる性格は、幼少期から変わっていません。一つのことを突き詰める性格なのです。

夢中で始めたレース活動と

わたしの幼少期から学生時代の経験は、大学3年生から始めたレース活動で活きました。

まずはレーシングカートから始めましたが、初めてレーシングカートに乗った日に、ラインアップ前代表の野瀬さんに出会ったのです。

「うちで自由に働きながら目指してみれば?」

わたしは野瀬さんの元で働きながら、夢中で練習して夢中で仕事する毎日を送ります。

レーサーを目指してからは、【練習・仕事・大学】と、全てに夢中で一生懸命になって過ごしていました。

そしてわたしは、サッカーを通して学んだ上達までの道のりを、大人になった自分なりに工夫していく中で、短期間で着実に上達しました。

まずは、キャリア3年目に全日本カート選手権に出場します。

まわりは幼少期からレーシングカートで腕を磨いてきた選手ばかり。苦戦が続きますが、それでもわたしは、一生懸命レベルアップするために努力を続け、予選などで時折トップに近い速さを見せることはありました。

そして、4.5年目にスーパーFJというフォーミュラカーレースでトップ争いの常連となります。ここでようやく芽が出始めた気がしました。

さらに6年目となる2020年には、数年後のF1ドライバー候補の若手ドライバーたちが参戦するFIA-F4でポイントを獲得するところまで上達しました。

現在日本人F1ドライバーとして世界最高峰で頑張っている角田選手も、2018年にFIA-F4に出場しチャンピオンを獲得しています。

もちろんわたしもチャンピオンを目指して戦いました。

しかし、結果は12レース中3レースでポイントを獲れただけ。レースの世界は厳しく、ポイントを獲得するだけでは足りないのです。

トップドライバーになるには、FIA-F4でチャンピオン獲得、最低限ランキング3位以内に入らなければ将来が見えてきません。

あくまでもわたしは、数レースでポイント獲得できた実力でしかなく、翌年も挑戦できれば上位を狙えた自信はありましたが、これは負け犬の遠吠えです。

わたしは2年目のFIA-F4に挑戦する環境を用意することが出来ませんでした。

途切れてしまったレーサーの道

わたしの6年間のレース活動を振り返ってみると、

・最短で順調に上達できたという達成感
・F1、F2、F3まで登っていく特別なドライバーとの確かな違い

今でもリベンジに向けて静かな闘志を燃やしていますが、わたしはFIA-F4で戦ったことで達成感と実力不足を強く感じました。

そして、「レースがしたくてもできない」という悔しさを噛み締めながら、ラインアップで仕事を続けていましたが、目標を失ったわたしは少し不貞腐れていたように思います。

この時は自分自身が本当に嫌で、惨めな気分で毎日を送っていました。

それを打破しようとラインアップの仕事以外に、レース関係の仕事をしてみたり、インターネットで副業をしてみたり、生命保険の外交員の面接を受けてみたり、個人事業主の清掃業もおもしろそうかなと見学してみたり、色々な世界を見てみましたが正直なにもピンと来ませんでした。

それから数か月間、少し気が抜けた状態で仕事をしていましたが、転機が訪れます。


キクチ、おれ引退することにした

長年勉強させてもらってきた野瀬さんからの驚きの言葉でした。

その時に、会社の経営が精神的に大変で病気を患っていたこと、仕込んでいた新事業を本格的に始めてみたくなったことを知りました。

しかし、その話を聞いたわたしは「だったら自分でやってみたいな」とすぐに思い、1日じっくり考えてから野瀬さんに、「僕が引き継ぎたいです!」と相談したところ、「いいじゃん!キクチならできるよ!」と背中を押してもらい、新しくラインアップを始めることとなりました。

「やらなくて後悔より、やって後悔」「やると決めたらとことん追求」

わたしはラインアップの経営が、大変そうだけどやりがいも大きそうでワクワクしたので始めることにしました。

お客様からの「ラインアップさんの再開を待っていますよ」

わたしが営業再開に向けて準備している時に、以前ラインアップでヴォクシーを購入したお客様がいらっしゃいました。

どうやら、臨時休業のお知らせを見てからずっと心配していて、通りがかったので寄ってみたとのこと。

「大丈夫でしたか?僕はまたラインアップさんに来たいので再開を待ってますよ!」と励ましのお言葉を頂きました。

事情を伝えると、「ラインアップさんは本当に親身になってくれたし、みなさんの人当たりが良くて明るいから、本当に再開して欲しいんですよね」

と、おっしゃってくださり、わたしはとても胸が熱くなりました。

わたしが7年間見てきたラインアップは、良い時も悪い時もありましたが、明るくお客様に長く愛されるようなお店です。

それは今後も変わりません。

創業時から17年間、お客様と長く良いお付き合いをさせて頂くことをモットーにしています。

支えてくれる人がいるから生きていける

そしてわたし自身も、支えられて生きてきました。

今回もラインアップを引き継ぎたいという考えを両親にも相談しました。その時も両親は、「正直心配だし、わたしたちにできることは分からないけど、何かあったらいつでも頼ってね。また帰ってくるのも楽しみにしてる。」と言ってくれました。

この言葉を聞いて、「自分がいろんな挑戦をできるのは、両親の支えがあるからなんだ」と再認識し、その期待に応えられるような人間になりたいと強く思いました。

こうして幼少期から振り返ると、

・なぜ両親は、自分勝手な態度をとるわたしを見捨てないでいてくれたのか?
・なぜ両親は、仕事の愚痴や夫婦喧嘩など、わたしの前で一度もしなかったのか?
・なぜ姉は、会話が少なかったわたしをいつも笑顔で迎え入れてくれるのか?

今になって思い返すと、幼少期にわたしが家庭の心配をした事が一度もありません。わたしが伸び伸びと成長出来る環境作りを、家族がいつのまにかしてくれていたのです。

大人になり気付いた事は、「どんな時も絶対に見捨てないで育ててくれた事。仕事しながらわたしの面倒を見てくれた事」が本当に大変なことだったんだろうなと感じます。

そんな家族に対し何も出来ていない自分を責めると共に、家族に対して言葉では言い表せない程、心から感謝・尊敬の思いが湧いてきました。

いつかわたしに愛する家族ができた時、わたしの両親がしてくれたように、家族に愛情をたっぷりと注ぎたいと強く思います。

今のわたしは、「支えてくれた人たちのおかげで生きていられる」

相手を思い、感謝の気持ちを忘れずに行動していきます。

 

菊池 宥孝